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走って走って、息が詰まって胸の奥が苦しくて口の中がひどく渇いて涙が止まらなくて、もつれる足に何度も転びかけて、その度に力強い腕に手を引かれてまた走って、走って走って走って。 距離にしたらそう遠くはないはずなのに、辿り着いたときには足は震えて頭は酸素を求めてぐわんぐわんと響いていた。 ゆっくりと顔をあげると、陽光を背にしてまるで太陽そのもののようにひかる男がこちらを見ていた。 繋いだままの手のぬくもりと、深い蒼に射抜かれて、また息が詰まった。 ざわめきの中、教室の並ぶ廊下をまっすぐに走り抜け、階段を一段飛ばしに駆け上がり、技術室の並ぶ人気のない廊下をまた走り、突き当たりの階段をまた上り、校内をまだきちんと把握しきれていないジェイドはどこを走っているのかわからないまま、腕を引かれるままに足を進めた。 零れた涙が渇く頃、漸く扉が見えた。階段を上りきった先にある、冷たく薄汚れた鉄の扉には「立入禁止」の貼紙が貼ってある。紙の真ん中、入と禁の間には亀裂が入っていて、破れのない部分にもあちこちに落書きがしてある。思案するまでもなく、屋上だ。この分だと結構な生徒が立入しているようだ、と、まわらない頭でジェイドは思った。 がたん、と大きな音を立てて、ジェイドの前を行く男によって扉が開かれる。最後の一段を引きずられるように上り、その場にへたり込んだ。 運動はあまり得意なほうではない。足ががくがくと震え、浅く呼吸を繰り返す。 最初に流したのとは違う涙が紅玉に膜をはる。足に伝わる冷たいコンクリートの感触が気持ち良かった。同時に、冬の冷たい風が汗ばんだ身体から体温を奪っていった。寒い。 彼の掌も汗でじっとりとしていた。濡れた肌が吸い付くようで気持ち悪いが、ひどく心地良かった。きゅ、と手に力が込められ、どうにか呼吸を整えたジェイドは顔をあげた。 繋いだ手の先の男、ピオニーは少し困ったように笑っていた。眉尻を下げ、情けない顔をしている。 ジェイドからの発言を待っているようだったが、ジェイドは何も言わずにその蒼をただ見つめていた。 「……俺、」 しばしの沈黙の後、ピオニーが漸く口を開く。伝えたい言葉を必死に探しているようで、時折視線が外される。暫くそうして左右をさ迷った後、意を決したようにこちらをはたと見据え、 「お前を、…知ってるかもしれないんだ」 曖昧な言葉に、ジェイドは僅かに瞳を丸くする。覚えているというには頼りない記憶であったらしい。返す言葉が出てこず、ジェイドは俯いた。 「…お前は女だし、背もそんなに高くないし、華奢で、声も高くて、」 ぐい、と強く腕を引かれ、足をもつれさせながらもどうにか立ち上がると、あおい瞳に自分が映っているのが見え、胸の奥がまた熱くなった。昔からそうだった。鏡に映る自分はひどく醜いのに、彼の瞳に映ると、まるで罪を洗い流されたかのような錯覚に陥る。見つめられれば脆い鎧を剥がされ、触れられれば冷たい身体があたたまるようだった。 彼は、ジェイドにとって太陽だった。 「だけど、菓子みたいに甘そうなのは変わらない」 だから俺はお前を知っている。そう言って笑う顔はあの時と同じままで、 「ピオニー…?」 「なんだ?」 「わた、し……わたし、を」 「うん」 「覚えているんですか?」 震える指先で彼のシャツを掴む。出会えたことが嬉しくて嬉しくて、そして同時に怖かった。 何度も夢見た時間。 再び出会って、あの頃のように笑い合って、あの頃と違ってずっとずっと側に在れたなら。 何度も夢見た時間。 彼が自分を忘れて、知らない誰かとあの頃と同じ時間を過ごしていたなら。 見返りは求めないと、自分自身にたてた誓いが音を立てて崩れていくのを。 どうにもならない嫉妬にかられて身を焦がすのを。 いつかの睦言でかわした、脆くて甘い約束事を破られてしまうのを。 ずっとずっと恐れていた。 過ごした日々の溶けてしまいそうな幸せがが忘れられなくて、過去であると認めるのが堪えられなくて、それならいっそ出会わない方がずっとずっと幸せで。 自分を知る彼が自分を愛してくれない事が、命を絶つより辛くて。 「わたしを、」 「あの頃のように、あいしてくれますか?」 それすら知らない事が、どんなものより苦しかった。
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